951,鴨長明「方丈記」の味わい |
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2024年 03月 18日
「枕草子」、「徒然草」とともに日本の三大古典随筆と言われる鴨長明の「方丈記」。ふだん見ることもなかったNHK放送大学の番組で、たまたま「方丈記と徒然草」(島内裕子講師)と言う10回分くらいまとめた連続放送にぶつかり,その講義や映像がとても面白く、思わず引き込まれてしまった。それに刺激され、高校時代に古文として読むというより学んだことのある「方丈記」を、原文で、もう一度じっくり読んでみたくなったのだ。
鴨長明「方丈記」(柳瀬一雄訳注、角川ソフィア文庫) 清盛の福原遷都による京の荒廃、大火事や地震の災害など経験し、住処も人も川の流れやうたかたのあぶくのように危うい存在であることに気づい長明が、50歳を過ぎて一人京都南の日野山に粗末な庵をつくり、移り住み、その隠遁生活での思いを綴ったものである。 長明が晩年(54歳から62歳没まで)隠遁した方丈の庵の復元図と間取り。方丈の広さとは、3米四方5.5畳の広さであり、それを4つの区画に寝床、書斎、楽器、経机を拵えて暮らしていたことになる。外には窯場や清水を引いた水場、小さな畑もあったようだ 原稿用紙にしたら20枚ほどの短い随筆であるが、読み出したら止まらない吸引力を感じた。文章が簡潔で、しかも驚くほど深みのある名文である。後ろに訳文がついた文庫本であるが、意味を正確に表現したその訳文には、原文の言葉としてのリズムや艶がすっかり抜けていて、まるで魂の抜け殻のようで、文学としての味わいはほぼ消されているのを感じた。以前、福田恒存が、日本語表現は歴史的仮名遣いを捨てて詩的情感を失ってしまった、とどこかに書いていたことがあったが、まさにそれだ。いくつか強く印象に残った段文を挙げれば、 (1段)ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。(有名な書き出しの無常感) (13段)古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。(遷都の廃れ) (21段)おびただしく大地震ふる事はべりき。その様、よのつねならず。山はくづれて、河は埋み、海は傾き、陸地をひたせり.土裂けて、水涌き出で、巌割れて、谷にまろび入る、なぎさ漕ぐ舟は波にただよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす.、、(大地震の被害描写) (25段)世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり、、(世間に生きるということの不条理) (32段)事を知り、世を知れれば、願はず、走らず.ただ、静かなるを望みとし、憂ひ無きを楽しみとす。世の人の栖を造るならひ、必ずしも、事のためにせず、、、、われ今、身のために結ベリ。人の為に造らず。故いかんとなれば、今の世の習ひ、この身の有様、ともなうべき人もなく、頼むべき奴もなし。たとひ、広く造れりとも、誰を宿し、誰をか据えん。(なぜ庵生活をえらんだのか) (33段)魚は、水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は、林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして、誰かさとらん。(閑居の気味) などなど。 (最後の36段)世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はんとなり。しかるを、、、」と、それができたのか、それに果たして意味があったのか、と自問しながら、それを懐疑しながらも、かろうじて念仏を唱えることで、心の平安を取戻し、、この一文を終えている。 3496 日野山の 方丈栖に寝起きする 琵琶琴の調べ慰みとして In the Hino Mountain He made an everyday life In Hojo Hermitage Playing the biwa and koto as a comfort 13世紀の貴族社会から武家社会へと激しい変遷をとげていく中で綴られたこの「方丈記」が、その後の多くの日本文学の災害記、蟄居隠遁記、逍遥記、自然観察記、無常観などの先駆となった由縁である。とても味わい深い随筆で、それを1時間かけ一気に読めるのは、まさに文学鑑賞の醍醐味、と言えよう。 また、ここ10数年の数回におよぶ大地震(東北、熊本、能登など)の被害の有り様や、これから大地震の襲来が恐れられている東京、関西などの都心部で、その価格がうなぎ上りに上がっているタワマンなどに価値を求めて群らがっていく現代人への警告、戒めにもなっているかもしれない。(24段)で、地震などの災害を振り返って「すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし」なのだと言っている、、 #
by yasuiga4519h
| 2024-03-18 19:28
| 21世紀のパンセ,読書
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2024年 03月 12日
この冬は、思いもかけず、2月の半ばから3月まで大雪に見舞われた冬となったが、3月も24節季の雨水、啓蟄を過ぎてやっと最高気温が氷点下でなくなり、降り積もった雪も少し緩んできた。 冬眠から覚めたエゾリスが現われ、庭の雪の上の散歩 この日、朝起きると一匹のエゾリスが庭の雪に現れてあちこちうろうろしている。雨水、そして啓蟄を迎え朝の暖気を感じたのか、冬眠から覚めてのこのこ餌をあさりにきたようだ。そのかわいらしい姿を動画に収めたりしていると、すぐどこかに消えてしまったが、、、このエゾリスの突然の出没で、少しだけ春が近づいていると実感でき嬉しくなった。屋根からもぽたぽたと雪解けの雫が落ちているし、北国の雪解け、春は近そうだ。 3494 ぽたぽたと落ちる雫の 雨水入る 北国の春もうすぐそこに Potta pota Snow melting water is dropping We are now in "Usui" Spring of northern land is soon here 3495 暖気おり 雪のゆるみにおでましの 蝦夷りす嬉々と餌探し居り Warm air is falling down on the snow The snow is slightly loosing now A Ezo squirrel wakes up from hibernation He happily searches for food on the snow 茶室の侘助,春を前に最後に残った二つの蕾が開いた #
by yasuiga4519h
| 2024-03-12 14:22
| 札幌の風物
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2024年 03月 05日
3月に入り大雪のなかで桃の節句を迎えた。雪はまだまだ消えそうもない。
桃の節句に、シアトルにいた時分姉から贈られてきていた小さなヒナ人形を、昔懐かしいヒナ あられも添えて飾る 先日見た映画「Perfect Days」に登場した幸田文の15篇の随筆「木」を再読してみることにした。前に読んだのは確か6〜7年も前になるが、その細部は忘れているものもたくさんあり,初めて目に触れるような章もあって、人、いや自分かも、の記憶ってあてにならないなあと思いながら読み進めていた。テレビの昔の映画ドラマなどを見ててもよくあるように、、 前に読んでいた本が見つからず,新しく文庫本を買い直した。さっそく表紙帯には抜け目なく映画のことが紹介されているぞ 幸田文は、その木や花に対する深い愛情は、子供の時から折に触れて父親の露伴から漱ぎ込まれて育てられたものだと「藤」の章で花や木との出会いを述懐している。 しかし,自分の生んだ娘にはあるチャンスを逃したことから、それができなかったと後悔もしたりしている。「花を見てもきれいね、木を見ても大きな木ねというだけ、、世話して花を咲すなどは面倒そう、ほかにはやさいい心をもつほうなのだが、野良犬に踏み倒された小菊をおこしてやろうともしない固さなのである。草木をいとおしまぬ女がどんなに味気ないものか、子ながらうとましく思うことさえあった、、、」と漏らしている。 読んでいくうちに、少しづつ書かれた内容を思い出した章もいくつかある。例えば、富良野の演習林で倒木の上にきれいに一列に並んで生えている不思議な光景を扱った「えぞ松の更新」、植林されまっすぐに林立するひのき林で、たまたまの環境で歪んだままそれを補う形で成長を続けた木は、材としては製材すると曲がったり、パシっと裂けたりして使いものにならないアテとなる運命を実見し、人間の世界にも思いをめぐらして、そこに漂う悲哀感を引き出している「ひのき」、屋久島の樹齢7000年を越える縄文杉の形の異様さと強さを体感した「すぎ」、縞枯山の不思議や北海道野付半島の寂寞としたとど松の枯れ木群残影を扱った「よこの木 たての木」、桜島や有珠山の火山灰の覆い被さったなかで生きていこうともがき苦しむ樹木の苦難を描いた「灰」などである。 前に読んだときに強烈な印象を受けた「安倍峠にて」の章で、花や木の芽吹きの様子を、細やかな情感を込めて描いていたとても美しい文章をブログにも取り上げた事があった(ブログ617; http://yasuiga.exblog.jp/27251518/ )。 今回も「灰」の章に出てきた紅葉の美しさを表現した文がとても感動的で抜書きしてみた。「ついでながらいえば,紅葉黄葉ほど美しい別れ,あるいは終りといったらよかろうか、他にあるまいと私は思っている。今年のいのちの退き際に、ああも華やかに装いを改め、しかもさりげなくふっと、なんのためらいもなく、居場所をはなれてしまう。はなれて散り敷けば、これがまたどこに舞い降りようと、かならずぴたっと姿よく納まって美しい」紅葉、落葉の美しさをこんな風に表現できる散文そのものが、とてもいい、とても美しいと思う。 3493 木の一生人の一生 重ねつつ 紡ぐことばにいのちを込めて Overlapping the life of a tree On the life of a person She drew the word Entrapping the life into that 昨秋の庭のもみじの紅葉を思い浮かべながら そのほかにも,今回はじめて目にした章,斑鳩の里に1年滞在しながらそこの宮大工の話や体験を通して材も生きていると実感させられる「材のいのち」、マッチ棒作りのためポプラを海外から移入しようとした研究者をあつかった「ポプラ」、杉形(すぎなり)という言葉の深い意味を考えたもう一つの「すぎ」など改めて新鮮な印象を受けた。幸田文の小説や露伴の「五重塔」や他の小説などもこれまでまともに読んだことがなく、これを機に少し読んでみようかな。 今年は開花が遅れていた侘助が、既に落花している花も含め15くらいの蕾が全て開き、桃の節句に合わせるように満開になった。それぞれの花が「木」の一章、一章のように思えなくもない それでも部屋にさし込む陽差しが多少とも春めいてきたようだ #
by yasuiga4519h
| 2024-03-05 13:41
| 21世紀のパンセ,読書
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2024年 02月 24日
国立新美術館のマチス展チケット 京王プラザホテル「かがり」での会食、ひな祭りが近いせいもあって、ひな人形をデザインした春めいた食器で会席料理をいただきながら、いつもの様に楽しい会話が弾んだ 古き友ここに集ひて また楽し 温故知新の春のうたげよ Dear friends gathered here At a spring feast of the reunion It's really fun of Learning from the past and creating the newness いつもの様に、原社長などの開発にまつわる話や昔話に花が咲いた。また息子の英郎さんが副会長を勤めている健康食品協会で,特保と健康表示食品のそれぞれの利点を生かしながらどう両者を競合発展させる事ができるかという取り組みや、海外市場での問題点などの話もあったなかで、日本の特保の第一号がサントリー時代に古賀さんが開発部長として取り組んだ「キシロール多糖」だと初めて知って「そうだったん?」とセサミン開発だけではないことに改めて驚かされた。1年に1度の、本当に気の置けない楽しい集いである。 翌日、雨の降るなか、札幌へ飛ぶ前の時間を使って、六本木の国立新美術館で開催されていた「マチス:自由なフォルム」展に出かけてみた。昨年5月東京都美術館での「マチス展」に続いてだが、今回は思ったより混んでなく、前に観られなかった大病後絵筆が使えなくなったマチスが、晩年、ニースのシミエ地区のアトリエ、レジナ館で製作したたくさんの切り紙絵など、贅沢にも150点もの作品を、1時間ばかりじっくり観ることができた。 自分にとっては、35年前の滞仏中に訪れたニースのマチス美術館で観た「ヌーブルー」や「花と果実」などに再会できたのがとても嬉しかった。特に「ヌーブルー」はこの時手に入れた特製コピーを、それからグルノーブル、シアトル、札幌と場所は変わっても、いつも自宅居間に飾って四六時中身近に親しんできた絵であり、特別の思いがあったのだ。 3492 懐かしき ヌーブルー目の前に ニースの旅の思い出はるか How nostalgic ! In front of Nud Blue of Mathis Memories of my past trip to Nice Returned me from far away シミエのマチスのアトリエの写真と切り紙絵が配置された一画、ヌーブルーとは35年ぶりに本物との再会である マチスの年譜、フォービズムの旗手、色彩の魔術師としての活躍から晩年の切り紙絵、ロザリオ礼拝堂建築に至る84年間の華々しい業績が並べられている。すごいな 最後のセッションは、晩年マチスが過ごしたニースの北西に位置するヴァンスで、彼自身がデザインし、手がけたロザリオ礼拝堂の一部が等寸大で再現されていて、観る人をマチスの神秘的な色彩と光の世界に誘ってくれる。画家の造った、他に例を観ることのできないユニークな礼拝堂である。自分は35年前にヴァンスまで行きながら、この礼拝堂を知らず、見逃していた。 ロザリオ礼拝堂のステンドグラスの色彩と光の移ろう祭壇をうっとりとして眺める鑑賞者たち 帰札前の素敵な時間をマチスを観ながら過ごすことができ感謝である。夜、札幌に戻るとすごい大雪で、少し前の暖かさでいったん減っていた積雪がまた元に戻ってしまっていた。あーぁ、札幌では春はまだしばらくは望めないようだ。 #
by yasuiga4519h
| 2024-02-24 11:53
| 絵画芸術観賞
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2024年 02月 18日
雪解けの進む週末、家人を誘って久しぶりに街の映画館に出かけ、話題の「Perfect Days」 を鑑賞した。役所広司演ずる公衆トイレの清掃を日々の仕事とする男の生活や情感を描いたドイツ人ヴェンダーズ監督の作品で、無口な男を演じきった役所がこの演技でカンヌ映画祭の男優賞に輝き、また2024年のアカデミー賞の候補作品にノミネートされている。
その生活に、時々、下町の人々の生活が交差したり、家出した姪がアパートに転がり込んだりしたりするが、格別大きな事件に巻き込まれることもなく、主人公は生活のペースを変えることもなく淡々と働き続けていく。無口な彼は会話も少なめで、仕草や顔の表情だけの寡黙な演技を通じて、まわりの人々とのかかわりを絡めて、働くこと、生きることの意味を観る者にじわっと感じさせていく作品である。 トイレ清掃員の主人公の趣味は、カセットの音楽を車で聴くことと本を読むこと、木洩れ陽の写真を撮り、部屋で鉢で小さな木々を育てたりしている。あとは公衆トイレの清掃員としての仕事を決まったルーチンでこなしていく、、、それなのに観ているうちに、そのルーチンの日常を笑顔でこなしていく主人公の生活に「それでいいのだ」という共感をもたされていく。 3489 木洩れ陽の きらら映らふベンチ座し ひと息つくや仕事を終へて In the sun light filtering through the trees A man sits on the bench of a shrine He catches his breath for rest In the afternoon after hard work ヴェンダーズ監督は、この作品で何を描こうとしたのだろうか。小津安二郎の映画のような東京の下町情緒に溢れた生活のなかにある種の共感を見いだしたのかもしれない。ひとつ気がついた事がある。主人公は公園の木々の木洩れ陽に視線を注ぎそれをカメラにおさめたり、その木の根元の苗芽を掘り出し家で育てたり、、そして何よりも寝床で寝る前に目にしている一つが、古本屋で100円で手に入れた幸田文の随筆「木」という本なのである。木、生活にいつも木が意識されている、、 映画に登場する幸田文の代表的なエッセイ集「木」(新潮社版)、木を優しく見つめ、その木のいのちの本質と人間の生との重なりを描いた名文が光っている。木への愛情は父の露伴から受け継がれたものだという 3490 下町の神社の杜に生ふる木の 優しさ強さ 日々糧として Tenderness and strength of Living trees in the garden of a downtown shrine It might be daily bread To survive the life 幸田文の15篇のエッセイ集「木」は様々な木々に対する細かい愛情で木を愛でた名文で、自分は以前に、樹木好きの友人から「とてもいいよ」と勧められて読んだことがあり、深い感銘を受けていた(ぶろぐ 617:春の花、芽吹きhttps://yasuiga.exblog.jp/27251518/ つまりこの映画作品は、無言の木がしっかりと地に根を下ろし、命いっぱいけなげに、たくましく生き抜いているように、そうした無口の男の生活を木の命とだぶらせながら、そのなかでの人々との関わりを木漏れ陽のゆらぎみたいにして描きたかったのではないかと思えてきた。まさに無言の「木」のような役を演じた役所の好演も含めて、とてもいい映画であった。 木のように、静かに、自立して、たくましく、しかも競わず、争わず、その木洩れ陽でまわりを包み込むような優しさに溢れた生き方が、世界中どこでも、そこらじゅうで弱肉強食がはびこる今の世界の Another way として、もしその深さが評価されるとしたら、今年のアカデミー賞をとってもおかしくなさそうだ。 #
by yasuiga4519h
| 2024-02-18 12:05
| 絵画芸術観賞
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