611、2つの資本主義論(欲望と資本主義、マネー資本主義)を読む |
The buds of pheasant's eye blooming first at my snow thawing garden
保守の論客と言われてきた佐伯の資本主義論は、25年経った今も色あせてないようだ。何故社会主義が、ゴルバチェフのペレストロイカが機能しなかったのかを十分に説得してくれる。マルクス主義経済論に一番欠けていたのは,経済を発展させていく大きな原動力となる「消費者の欲望」という視点であった,つまり人間の持つ「欲望」というものを経済の重大要素として捉えきれなかったことにあるという。
資本主義は,次から次と形を変え、消費者の「欲望」を拡張し、その活動を拡大してきた。「資本主義とは、人々の欲望を拡張しそれに対して物的なかたち(商品として)をあたえていく運動だといってよかろう」と述べ,現在のそれを広告と情報の資本主義として性格づけしている。また別の場所では「資本主義と云うものは我々の社会生活の一部に過ぎない、、だから資本主義社会というものは存在しない」と資本主義を人間の社会、文化の営みの一部として限定させる視点もほのめかしている。
佐伯は、この資本主義の、永続的な発展という強迫観念に突き動かされた動きを楽観的に見ていた訳ではない。とまらない欲望に基づく資本主義は、やがて人間の精神や文化の全体性という現実から乖離し、行き詰まることも予測していた。現在の佐伯が、バブル期を経て情報資本主義、マネー資本主義となり極端な格差社会を築きつつある今、資本主義の未来をどう予想しているのかは知らないのだが。
Two books of capitalism theory which was published before
そこで述べられていた反省は今生かされているのだろうか? 形を変えて息を吹き返しているのではないか。「とまらない欲望」としての資本主義は、崖っぷちから落ち、たとえ滅亡にむかっているとしても、行き着くところまで行き着くしかないのかもしれない。あるいはまだマルクスやケインズの視点を包含した人間の顔をした正義、公正の経済運動として展開していく可能性は少しでも残されているのだろうか?
A oleander in front of the study. The flower language of which is "attention, danger and care" because whole plant body has strong poison
A banyan tree of Okinawa origin in a pot. Together with Akou trees in Tanegashima, they are called the tree of "strangling" which strangle the base of its own existence. I sometime think the capitalism has the same ecological behavior with these trees
哀しきは
カジュマルの木の習性よ
元木を殺めて繁りゆくいのち
A poor thing !
It's a habit of the banyan tree
which kills it's own foundation and grows up on that decay