668、後日の福生再訪(回想の福生 6) |
6,7歳までの幼年期を過ごした福生が急に懐かしくなって、成人してから一度だけ尋ねたことがあった。それがいつなのか、どのようにしていったのかを覚えていない。学生時代か、社会人になってからかさえ、どうしても思い出せない。一人ででかけたから誰にも聞けない。もちろん写真もない。
20年近くたって訪れた福生市はその相貌が全く変わってしまっていた。自分の面影に残っていた福生の街はもうなかった。町から市に変わり、町役場も近代的な市役所の建物に建て替えられていた。恐る恐る我が家のあった方向に眼をやると、なんと驚いたことに鉄筋コンクリートの建物に挟まれて、記憶に残る我が家があったのだ。面影は見まちがえようもない。ただ思ったより小さな造り、池も前庭も印象に残っていたものとは違って、いくぶん簡素に見え意外な感じがした。
2720 ( 回想28)あの時のあの広い道目の前のこの小路かや時隔たりて
Is this narrow street really
That huge road at that time ?
Two realities coexist on the separated time of mine
なによりも驚かされた家の前の通りの狭さである。あの頃は家から遊び仲間のたまり場だった役場の広場に行くのに、広い、広い道を横切って渡っていった。まるで冒険家のように。あの広い通りがこの狭いくらいの道路なの?幼児の視点から眺めた景色と大人の自分がみているそれとの違い、あたりまえといってしまえばそれまでだが、やはりその現実の隔たりに時の流れを感じさせられ、一種のショックを受けた自分がいた。畦の水路で遊んだ田んぼはないし、友人たちのいたアパートや家はなくなっていて、まるで浦島太郎。ただ自分のすんでいた家だけが見知らぬ世界にひょこっと残されていたのは、そこに住んでいた幼い自分の存在( 実在)を確かめることができ、なんとも幸せな訪問となった。
あの世界は夢だったのではなく、確かにここにあったのだ。マルクス・ガブリエルのいう重なりあう「意味の場(領域)」としての実在性。
A town in my memory and the town now are overlapping in this world
The two reality really exists in this world
Not only that,
Each person's memory also has it's reality and co-exists in this world
Arranged white roses and lilies in being warm ( Feb 19)