750、千葉高校の3年間(1) |
1960年4月、宇都宮から再び千葉に移ることになった。親父が千葉に定年の前に家を作草部に新築し、そこに住むことになったからだ。高校は県立千葉第一高校(翌年にすぐ県立千葉高校と改名)で、市街地の高台である葛城の丘にたつ名門校で、そこまで毎朝買ってもらったピカピカの自転車で通った。県外からの新入生は少なく、珍しがられた。担任は歴史の南波怒一先生、戦争をくぐり抜けてきた勤厳実直な思想家肌の先生で、青春時代を通していろいろ影響を受けた恩師である。サークルは軟式庭球部に入部し、放課後はコートで過ごすことが多くなった。
その新しく始まった高校生活を短歌で自分のために残しておくことにした。ただし当時の写真はその後の長い海外生活や生活の変転のなかで失ってしまい、残念ながらほとんど残されていない。せめて微かに残る思い出たちのスケッチ短歌として。
2972 (回想145) 作草部の雑木林に建つ新居引っ越してすぐ池掘る親父よ
2974 (回想147) 放課後の軟庭部活の仲間たち松田、市川、山中,柴山
この年、安保改定阻止の国会前デモで東大生の樺美智子さんがなくなり、担任の南波先生が「これから上京してデモに参加します」と宣言して授業を中断して出かけたこともあった。高校生になったばかりの自分ではあったが、こうした雰囲気のなかで政治というものが身じかな出来事として感じられるようになってきていた。
千葉高校は政治に敏感というか活発な学校で、1年先輩の生徒会長で、東大に進み後に公明党の委員長として活躍された神崎武法さん、おなじく少し後輩になるが、同じように東大に進んで後に共産党の委員長として活躍している志位和夫さんなども同じ高校で青春を過ごしたことになる。1年先輩のなかには、おなじく東大に進んだ歌手の加藤登紀子さんもいた。
このころの一番楽しい思い出は、今でもクラス会などで語り継がれるクラスの仲良し(石渡、松田、小森谷君)と夏休み計画した房総半島一周のサイクリング旅行である。当時はまだ車社会ではなく、車のほとんど通らない未舗装の道を、たまに埃をかぶりながら東金街道から九十九里浜、大原海岸、館山、鋸山と2泊3日の自転車の旅であった。
2976 (回想149) 夏休み友らと向かふサイクリング房総一周校舎にも泊まる
2977 (回想150) 九十九里の浜辺に寄せる白波に幼時に遊ぶ大洗思へり
2978 (回想151) サイクリング旅のおはりは友の実家大池の鯉にスイカを投げる
2979 (回想152) 汗ほこりはだか電球の温もりを文集に載せし夏旅の思ひ出