この正月に2冊の話題の本を読んでみた。1冊は「嫌われる勇気」、もう一冊は「東京ブラックアウト」である。
最近、アドラー心理学がブームとなっているらしい。これが日本だけのことなのか、世界的な現象なのかは知らない。それもあって、昨年のベストセラー「嫌われる勇気」に目を通してみた。
この本は、アドラー心理学の研究者である岸見一郎さんとフリーランスライターの古賀史健さんの、哲人と青年の対話という形式で書かれたアドラー心理学の入門書となっている。そのためか、とても読みやすい。読んだ印象を一言でいえばアドラー心理学は日本人には受け入れやすい心理学だということである。心理学のずぶのしうろうとなりに、なぜかを考えてみた。
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なにごとも
「和して同さず」むずかしく
「同じて和さず」はわれらの習ひ?
この本のタイトル「嫌われる勇気」にしても、最近読んだ別の本「空気を読まない」にしても、そういうことを今更強調されるのが不思議というか、それが当たり前の民族だって多いにちがいない。日本人は絶対的な神との関わりで自己を見つめるのではなく、他人の目=世間がその役割をしているので、そのしがらみの中で、こうした自他を区別し、他者から自立を試みる自我に勇気を与えてくれそうなアドラーの言葉が人々の心のよりどころになりえるのかもしれない。われわれは何につけ、対人関係の中で「和して同さず」が難しく「同じて和さず」に流れやすいメンタリティを持ち合わせている国に生きている。もちろん、論語にあるくらいなので、この国だけのことではないのだが、この国で、自己の確立(自立)をめざしてきた人々は、日々こうした環境に身を曝しながら、他者(世間)との関係で自己を鍛えてきたし、現在もその事情にはまったく変わりはない。自立とは,すなわち「嫌われる勇気」、あるいは言いかえれば、自他の領域の切り割り、そのものと言えるかもしれない。
さらに、アドラー心理学のいう人生のゴールとしての共同体感覚の獲得って、仏教の仏性に通ずる感覚で、たとえば盤若心経の説く世界にとてもよくにているようにも思える。生きとし生けるものの魂の空間である。その意味でも我々東洋人には極めて親しみやすい概念なのではないだろうか。
新井満さんの自由訳「般若心経」,とてもわかりやすい言葉と写真で心経の世界が表されている
もう一つには、フロイトのトラウマ理論、過去の経験が現在を支配し続けるという決定論に対して、アドラーの目的論「与えられたものを素直に受け入れ、それを有効に使っていかに自己変容していくか」は、運命にしばられず自由に、自己創造的に生きたい人々を勇気づけてくれる言葉となっている。これは、生物学的にはフロイトの決定論が、長い間支配的な考え方であった遺伝子(DNA)絶対主義に相当し、アドラーは、DNA絶対主義に疑問を投げかけ、そこから脱却を試みる遺伝子道具論ともいうべき現代生物学の理念の流れに近づいているのが、生命科学者としての自分にはとても興味深い。
我々はDNAに刻まれたコードにただ支配されているだけでなく、その支配は受けながらもそれを自分の意志で巧みに使い分けていく主体性を持った生き物なのである。というか、そうありたいと思う。アドラーはそれを直感的、先駆的に把握、表現したのではないか?
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自由とは
DNAを使ひつつ
DNAを超えてゆくこと(自由の生物学的な定義を試みてみた)これらは解説書を眺めての感想で、まちがっているかもしれない。一度本物を読めたら読みたくなってきたが、入門解説書があるくらいだからきっと難解なのだろう。もうその時間はなさそうである。
「嫌われる勇気」に戻ると、このタイトルに何か反語的な新鮮な響きを感じる人には,確かにすばらしい人生の書となるかもしれない。「それって当たり前じゃん」とはじめから感じている人にはそう衝撃的な本ではなさそうだ。そしてベストセラーの一位として広く読まれているということは,もちろん前者の人たちが世間には圧倒的に多いということだろう。